カスピアンはベルンを離れ島諸島の新しい総督に任命し、奴隷売買を一切禁止しました。
奴隷売買
一切禁止!
ナルニア国には
ものいわないイーストンラットさんが奴隷ではなく
「まことの名前」 relaxmaxの撮影した写真!
って「ちゃんとクレジット」入ってて
男性 女性のペイギャップ
国(ジャポン? イギリス?)
肌の色(ホワイト 違う色?)
関係なく
奴隷として
働かせまくることない
(、、、そういう時代も カスピアンの頃にはあったのかな?
さいごの戦いの頃は
「奴隷」いたな、、、)
人類の歴史も、、、
現代の奴隷貿易商人
現実のイギリスという国に
いるからなー
一つだけ述べておくと、カスピアンとエドマンド、ルーシィ、ユースチス、そしてリーピチープが奴隷商人に捕えられて売られそうになってしまったのです。
怖いよー奴隷商人が跋扈している
アスランの国も、、、
−
ルイスはナルニアという一つの世界の「創造から終末まで」を描きました。「さいごの戦い」は「終末」を描いているわけですが、終末を正しく覚えるためには、自らの人生の終末である死を見つめないわけにはいかないのです。終末を見つめつつ生きるとは、死を見つめつつ生きることでもあります。自らの死を見つめることなしに「終末」を語ることは
終末
そして
宗教(世界のいろんな
−
まことのナルニアは、つねにここにあり、つねにここのまま変わることはないだろう。さながら、わたしたちの世界、イギリスやあらゆる国々のある世界もまた、アスランのまことの世界の夢かまぼろしの国、影かうつしの国であるようなものだ
まことの国で
イギリスを見ると「影」?
並行世界も「また影」?
書物の中の国 洋服ダンスのむこう 海の絵の向こう の ナルニア
イギリス
そして まことのナルニア!
https://note.com/relaxmax/n/nb9a5ee45c863
−
そのナルニアとは、まことのナルニアではない。そこには、はじめがあり、また終わりがあった。そこは、まことのナルニアの、ただ影の国、まぼろしの国、ひきうつしの国だったのだ。
影の国
ひきうつしの国、
そして
鏡の国
現実の鏡としての小説のちょっと違う名前の国
大英帝国pt.2
と
イギリス
−
つなげているのは、アスラン(キリスト)の父である皇帝(神)です。「さらにおくへ、さらに高く 」進んで行くときに、
「神において全ては一つ」
なのか、、、
−
「鉄道事故があったのだ。」とアスランがやさしくいいました。「あなたがたのおとうさんおかあさんも、あなたがたみんなも、-影の国で使うことばでいえば-死んだのだよ 。学校はおわった。休みがはじまったのだ。夢はさめた。こちらは、もう朝だ。」
影の国の
「学校」で
奴隷貿易はやめると
学べなかった
エージェントスミスとロビン
−
大きいものですよ。」 ルーシィが見ると、この果樹園の中は、彼女の知っている一つの世界でした。「わかったわ。」とルーシィ。「ここも、やっぱりナルニアね。下にあるナルニアよりも、もっと真実で、もっと美しいナルニアね。ちょうど下のナルニアが、うまやの戸のそとにあったまことのナルニアよりも、もっともっと真実で美しかったように!世界のなかにある世界、ナルニアのうちがわのナルニアだわ…」
たまねぎ!
−
ナルニアから見える景色が皆揃っているのです。しかしそのどれもが、実際よりもずっとすばらしいものに感じられました。ワシの遠見ぬしが空に舞い上がり、ナルニアの全てのものがここに揃っている
太陽がなくなるところ
を見た後のお話し!
玉ねぎ!
プラトンだったのか
−
いまやっとわかったわ。この庭は、あのうまやのようね。そとよりなかのようが、ずっと大きいのね。」「もちろんですよ。イブのむすめさん。」とフォーンがいいました。「あなたが、さらに高く、さらにおくへはいっていくにつれて、何もかもずっと大きくなるのです。うちがわは、そとがわよりも大きいものですよ。」
懐かしい
リーピチープ
再会は「生きてて」できる
「みたいな」
別のお話し
アスランの国は書物で
その別の書物の「ゲンジツ」は
幻の影の国の、、、
幻日の、、、
蜃気楼と影
そして
イーサーであり
ライシンである
時を止める男
−
一角獣のたから石は次のように表現しています。
「ああ、わたしはとうとうもどってきた!こここそ、わたしのまことのふるさとだ!わたしは、もともとここのものだった。ここをわたしは、いままで知らずに、一生さがしもとめていたのだ。あのナルニアをわたしたちが愛していたわけは、時々ちょっぴりここに似ているところがあったからだ」。これは、プラトンのイデア論 のとてもわかりやすい解説であると言えるでしょう。
−
聖書の語る「神の国」はイデアの世界ではありません。始めがあり、終わりがあるこの世界は、決して「ほんものの世界」の「影」や「ひきうつし」ではないのです。聖書には、この世界と別に、ほんものの世界が永遠不変にある、という考え方はありません。この点において、ルイスは聖書の教えから全く離れて自らのプラトン主義哲学 を語っているのです。
聖書の「世界観」
をこどもに、、、
って思って読んでたけど!
「ここ」はプラトン
なんだな!^_^
−
そしてディゴリーは付け加えます。「これはすべて、プラトンのいうところだ。あのギリシアのすぐれた哲学者プラトンの本に、すっかり出ているよ。やれやれ、いまの学校では、いったい何を教えているのかな?」 。
ルイスがディゴリーの口を通して語っているように、ここに語られているのはプラトンの哲学に基づく世界観です。常に変わることなく存在するまことのナルニアとは、プラトンの言う「イデア」の世界です。はじめがあり、終わりがある現実の世界はその「影、ひきうつし」に過ぎないというのがプラトンの世界観なのです。ここでのディゴリーはルイスの分身です。ルイスの、多分にプラトン主義的世界観がここに語られているのです。前回述べた二元論的傾向もこのプラトン主義から来ていると言えるでしょう。
プラトン学んでないけど
(、、、たぶん 私 自分「哲学」あるから 他の人の哲学 あまり読めない!)
−
ここはちがうところだ。ほんものが水の鏡とちがい、目をさましている時が、夢みている時とちがうように、ちがうのだよ
MIKAGAMI
水鏡
写して観る「本当の自分、ピュアなrelaxmaxの写真」
を
ネット上で「ハッカーアタック 偽に!」しまくるのは
どこの国の
どの宗教の人?
(いろんな国の宗教的な 「聖地」など relaxmax撮影の写真を!アタックするのはどうして? 犯罪者ハッカー!)
−
ナルニアの終わりは、The End ではなくて、an end 「一つの終わり」なのです。つまり、この世が終わり、滅びても、なおその先に新しい世界があるということです。神様と私たちの関係は、世の終わりにおいても終わることがなく、なおその先に救いがあるのです。ルイスはその信仰を、プラトンのイデア論と結びつけて、「影の国」から「まことのナルニア」への「ひっこし」として語っているのです。なお、ディゴリーの言葉で「ひっこしてきた」と訳されているところは、原文では have been drawn into です。つまり自分で「ひっこしてきた」のではなく、アスランによって、キリストによって、「引き入れられた」のです。私たちは神の国に「引越しをする」ことはできません。神によってそこへ引き入れられるのです
drawn into
なるほど
−
それは原文では「Now make an end.」です。ナルニアの終わりは、The End ではなくて、an end 「一つの終わり」
−
最後にうまやの戸口が閉じられる時、アスランは、「さあ、おわりとしよう」と言いました。それは原文では「Now make an end.」
英語で読んでみたいな!^_^
an end
−
「さいごの戦い」はそのことを描いています。うまやの戸口におけるアスランの審きを経て、こちら側に入ることを許された者たちは、神の国に入れられたのです。
ここが
私が今書いている小説は違う
最後の時
約束の時
おわりは終わりではない
garden mild!
地上の楽園
地球を救うお話し!
救われた地球で
生きる
神とともに住まう
楽園、地球
ガーデンアース
新しい庭を造る
造園家
−
タシの神はアラーの神ということになります。そのように見るならここにはキリスト教からイスラム教への差別、蔑視があると言えます。ルイスは、キリスト教国であるイギリスにおいて、キリスト教こそ真理であるという素朴なそして実は傲慢な前提に立って、異教徒エメースもアスランの民だったのだと書いているのです。
イギリスという国
そして「国教」
教授だからな、、、ルイス!
タシの神はアラーの神ということになります。
えー!
全然違う神様見たけど!
夜の旅!
たぶん
ルイスは
夜の旅
コーランは知らないけど
イスラム教ではない
キリスト教の人で
「タシ」?
ああいう、、、?
夜の旅!
https://note.com/relaxmax/n/n7a6a55c22876
−
キリスト教の傲慢です。
カロールメン国はヨーロッパから見た「トルコ」のイメージで描かれています。つまり彼らの宗教はイスラム教です。
トルコなんだ、、、(十字軍 戦争 宗教!
(アラブ? いくつか国は出てくる ナルニア国)
−
ルイスの「キリスト教の優位性」についての素朴な思いが見えてきます。彼にとって、アスラン(キリスト)こそまことの神であり、他の神は偽りの神であることは自明の前提なのです。そのことを前提とした上で、偽りの神を誠実に信じている異教徒も、実は無意識の内にキリストに仕えているのだ、と言っているのです
(私は
特定の宗教
というより
「神の名前は その人の心の中に」
とかそういう表現なのは、、、
(どの宗教の人
「優位」
を考えるほうではないじゃぽんの人らしさ、なのかも!
自然の神様とか!
−
聖書において、この世の終わり、終末は全ての終わりではありません。むしろ神の国(神のご支配)の完成であり、新しい始まりです。世の終わりにおける神の審判を経て、神のご支配が完成し、新しい世界、神の国が実現するのです。その神の国に生きる者とされることが、聖書の語る救いなのです
1000年王国
とかあのあたり
−
「魔法」の意味は、前にも書きましたように、「この世界の基本的秩序、掟」というようなことです。世の始めからの深い魔法(掟)においては、裏切り者、罪人は殺されなければならないのです。それはパウロの言うところの、律法において働く「罪と死の法則」(ローマの信徒への手紙8・2)です。それに対して、世の始めより前からのより深い魔法とは、天地を造られた父なる神のみ心です。そのみ心においては、罪のない者が罪人の身代りになって死んだなら、その死はふりだしに戻る、つまり罪人の罪を背負って死ぬ罪のない贖い主によみがえりが与えられるのです。この父なる神様のみ心が、「罪と死の法則」を越えて働いているのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(ローマの信徒への手紙 第八章一~二節)。
ローマか、、、
贖罪
ミラノ勅令303
(それまでは 結構イエスは受難してたみたいだしな)
−
ルイスも、「ライオンと魔女」において、人間の罪の赦しのために身代わりとなって死ぬ具体的存在としてのアスランを描いた
ライオンと魔女
「身代わり」?
人間の罪の「赦し」
−
抽象概念としての神ではありません。イエス・キリストという具体的な一人の人間となり、肉体をもってこの世を歩み、私たちの罪を背負って十字架にかかって死なれ、肉体をもって復活された方こそまことの神なのです
一神教
イスラムとの違い
ふつうの人
常人 という言葉で書いてた
−
アスラン(キリスト)は善の神、タシは悪の神とすることによって、アスラン(キリスト)は、この世を歩んだ具体的な存在ではなくなり、「善」という概念、理念へと抽象化
「抽象」?
そういうもの?
十字架はあるけど
(偶像破壊?
たまに難しいな!
具象と抽象
偶像崇拝
そして
十字架破壊
(、、、悪の神?他の宗教を?
けっこー怖いな!
ちなみに 自分の10代の頃 読んでた時は
「キリスト教」アスラン イエス って知ってて読んでたけど!
異国の
肌の色
タシ
カロールメン
(、、、アーケンとか? 他の国
アラブとかアフリカの国も? モデルの国)
あったかもしれないけど
「異国の宗教」って思っただけで
読んでいる方のこどもは!
「イスラム教 アッラー」
と思ってはいなかった。。。
この考え方は、アスラン(キリスト)は善の神、タシは悪の神(悪魔)という善悪二元論
そうか
悪魔!
タシ
(具体的に 「モデル」となる国 あるけど モデルとなる「悪魔?」 いたのかな? ルイスに、、、アッラー?
えー?!?!
時代かな?
だって違う宗教だけど(イスラム教とイギリスのキリスト教!)
1950年代の「教授」は、、、
こどもが読むストーリーで、、、
−
キリスト教であれ仏教であれ神道であれ、それを誠実に信じて生きる者は、皆同じ救いにあずかる、ということになります。必ずしもアスランを、即ちキリストを信じていなくてもよいのです。この考えに共鳴する日本人は多いのです。「宗教の違いは昇る道の違いで、頂上は同じだ」という考えとも結びついて、このアスランの(ルイスの)言葉に共感するのです
(、、、自分の考え方も
コレに近いかな
日本人的
じゃぽん!
ヤオロズの神 八百万
八百万神
−
さらにアスランは彼にこうも言いました。「愛する者よ、もしあんたの望みが、わたしを求めているのでなかったなら、かくも長く、かくも心をつくして求めつづけることはなかっただろう。なぜならすべての者は、まことをつくして求めるものを見いだすのだから」。
ここに、著者ルイスの宗教観が最もはっきりと現れています。すべて真心込めて神を信じ、求め、その神への誓いを誠実に果そうとする者は、意識していようといまいと、アスラン=キリストに仕えている者であり、キリストの救いにあずかるのだということです。カロールメン国に生まれ、タシの神を信じ、求めてきたエメースは、実はアスランの民、アスランの子だったのです。
(、、、コーランも読んだからこそ
なんというか
ある意味「逆」
とも言えるのか?
著者はキリスト教信者
そして この文章を書いている人は
キリスト教 教会の人(牧師さん)
暗記するほどナルニア国好きらしい!^_^
−
いいました。それはまちがいだ。タシとわたしは一つではなく、まったく反対だからこそ、タシにつくすほんとの信心は、わたしに通ずるのだ。なぜならわたしとタシとはまったくべつで、善と悪とをわける。わたしに対するよこしまな信心はなく、タシに対するよこしまならぬ信心はないのだから、タシにまことをちかって、そのちかいを守る者があれば、その者が知らないにせよ、その者がまことにちかったあいては、じつはわたしなのだ。またその者にむくいを与えるのも、このわたしだ。またかりにわたしの名において非道なことをする者があれば、その者がアスランの名をいおうとも、その男のつくすあいてはタシであって、そのおこないはタシにさばかれる
ムハンマドさん読んでたのは
シリア語の聖書
元は一つ
(、、、でもタシ ってじゃあ モデルあるの? 異国の違う「神」
、、、アッラーらしいとこの文章書いてるキリスト教の「牧師さん」は書いていたけど、、、読者として読んでた10代は、、、「とくにアッラーとは思わず、特にイスラム教」とは思わず読んでいた。。。
−
おお、とのよ。わたしは、あなたのむすこではなく、タシにつかえる者です、と。ライオンはいいました。わが子よ、タシにつかえたことはみな、このわたしにつかえてくれたことと思う、と。すると、わたしは、ちえをもとめ、ものごとのすじ道を求める大きな力にうながされて、おそれをおさえて、かがやかしいかたに、うかがいました
−
戸口の向こうの世界、即ちナルニアがあった世界が闇に包まれると、アスランは「さあ、おわりとしよう」と言い、ピーターに、戸口を閉めるように命じます。
ピーターが閉める
「うまやの戸」
うまやの戸口はまさに救いの戸口となったのです。
−
アスランを心から愛する生きものたちでした。それらの者はみな、戸口へ、つまりアスランの右がわにはいりました。」
ここに描かれているのは、いわゆる「最後の審判」です。世の終わりに、キリストによる審きが行われる、そこにおいて人間は、救われる者と滅びる者とに分けられるのです。その審きの基準は、生きている間にどんな良いことをしたか、ではありません。
そうなんだ?
「善行」とは違うんだ?
「いかに愛したか」(信仰?
そういう、、、
(キリスト教ではないけど アスランは好き^_^ 高校の先生は全員キリスト教の学校だった。。。礼拝があり讃美歌歌ってた 聖書の「授業の時間」あった高校! 遠藤周作も読んでいた「原罪」!)
−
聖書にも「悪魔(サタン)」が出てきますが、それは「悪の神」ではありません。人間をまことの神に背かせ、引き離そうと誘惑する者
「引き離す」
−
時の翁が角笛を吹きました。すると無数の星たちが天から降(ふ)ってきました。彼らは人の姿をした「星人」(ほしびと)でした。このことは、「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(マタイによる福音書第二四章二九節)という聖書の言葉とつながります。
マタイ か、、、
星人(ほしびと)は出しておいた!^_^
あの島の 結婚した カスピアン王子の、、、
は
一緒?
星人(ほしびと?
また違った?
よみなおそ^_^ そのうち!
−
それは、時間の流れの中にある今のこの世が夢幻の世界であるということと、世の終わりにおいてその夢幻から覚めるならば、もはや時間というものはなくなる、 ということを言い表しています。世の終わりは時間の中の一こまではなく、時間そのものの終わりなのです。時間もまた、神によって創られ、神によって終わる 被造物なのです。
なるほど
(キリスト教 の教会の人
牧師さんのページより!
時とは、時の翁(時の父)の夢であり、目覚めたなら時はもはや時でなくなるのです。
らしい、、、
ヤーンは別の小説に出てくる神様!^_^
「時の翁」(原文においては Father Time)
時の翁
いい名前!^_^
瀬田さん翻訳!
ちなみにヤーン
別の小説の「かみさまの名前^_^」
どの小説?わかるかな?
−
信仰とは、自分自身の心という牢獄から解き放たれて、明るい外の世界に生きることです。神を信じ、神と共に生きる世界は、人間の心の中にある虚構ではありません。それこそが真実な、本当の現実です。神を認めず、目に見えることのみを「現実」として生きることは、実は私たちの心の中の狭い牢獄のみを現実としているのであり、それこそ虚構の中で生きていることなのです。
なかなかいいこと書いている
でも!
「現実」ってなに?
(みんな 一つの現実を見ているかな?
げんじつ
は一つ?
ほんとはね?
もしくは
嘘 増やしたハッカーたちの「狙い」は 本物を「ニセアツカイ」して本物を信じるヒトを減らす? あの小人たちのように? (騙されたあと なにかを信じるのは 難しいらしい 信仰 そして 現代人 このころ1950年代と「イマ」の違いは?)
−
アスランは言いました。「小人たちは、わたしたちの手助けがほしくないのだよ。かれらは、信ずるかわりに、ずるくやるたてまえだ。小人たちのとじこめられているところは、ただ小人たちの心のなかだけだが、そこにいまだにとじこもっている。また、だまされるのをおそれているから、助けだされることもない。こもっているから、ぬけだせないのだ。」
ここの原文には言葉の遊びがあります。「だまされる」は taken in、「助けだされる」は taken out です。taken in されることを恐れる余り、taken out されることができないのです。「引きずり込まれることを恐れる余り、閉じ込められているところから解放されることができない」
この人は
原文も読んでそう
taken in
taken out
−
むかしあるものがはいっていたうまやがありましたが、そこは全世界より大きかったのですよ」
「あるものがはいっていたうまや」、それは聖書を知っている者には明らかに、主イエスがお生まれになったベツレヘムの馬小屋です。
厩戸の王子
そういえば
(そのころ 日本にキリスト教 一回伝わってたのかな?
蘭学とか伝わったより「前」
船でなく シルクロード?
どうだろう?
偶然?)
四天王寺
聖徳太子
(10人のお話し聴く人)
−
「これはまるで」とチリアンがじぶんでもにこにこ笑いながらいいました。「うちがわから見たうまやと、そとがわから見たうまやと、ふたつはまるでちがった場所のようですね。」「そうだとも。」とディゴリー卿がいいました。「うちがわは、そとがわより大きいものだ 。」
ディゴリー卿のこの言葉は、「さいごの戦い」の、そしてルイスの世界観の根本に関わる大事な発言です。これはプラトンの哲学に基づくこと
キリスト教
っていうより
「プラトン」
なんだ
(彼の! 世界観
玉ねぎ)
−
「おとなになるってね、まったく。」とポリー姫がいいました。「スーザンには、本当におとなになってもらいたいものね。あのひとは、いまの年ぐらいに早くなりたがって、学校に通っているころを台なしにしてしまったし、また、今の年のままでいたくて、これからさきの一生を台なしにしてしまうでしょうよ。あの人の思うことといったら、できるだけ早く、一生のうちのいちばんばかな年ごろになりたがって、できるだけ長くその年ごろにとどまりたいということなのよ。」
ここに、スーザンはもうナルニアの友ではないということが語られています。彼女は今、いわゆる「年頃の女性」なのです。そして年頃の女性たちが心を奪われる華やかな生活のすっかりとりこになってしまい、ナルニアのことは「子供の頃のおかしな遊び」としか思っていないのです。私たちの世界からナルニアへ行った子供たちは八人でしたが、スーザンだけはナルニアのことを忘れてしまったのです。
ナルニアには
本をひらけば
いつでもいける!
ハリポタの国に行く
こどもたちもイギリスにはいる?
本を開く?
映画を観るの?
−
タシとアスランは同じ神の別の名前に過ぎない、同じ神が、ナルニアではアスランと呼ばれ、カロールメンではタシと呼ばれているのだ、というのです。これを言い直せばこういうことです。「いろいろな宗教が様々な別の神々を信じているが、それらは結局は一つの存在の別の名なのだ。諸宗教の違いは登る道の違いであって、頂上は一つ。結局のところ神は一つなのだ」。そしてこういう考え方は、まことに合理的に思えるのです。「おれたちの方がただしくて、カロールメン人たちの方がまちがっているというむかしからの考えかたは、みんなたわけだぞ」。それは私たちにあてはめて言えば、キリスト教だけが正しくて、仏教やイスラム教は間違っているなんていうのは、キリスト教の傲慢ではないか、ということです。そんなことは昔の無知な時代の考え方だ。二一世紀にもなった今、「おれたちは、いまやもっとよく知ってるんだ」。キリスト教も仏教もイスラム教も、同じ真理を違う仕方で語っているに過ぎないのだ…。そう言われれば、なるほどそうかもしれない、と思ってしまう。これがヨコシマの論理なのです。
この文章書いてる人は
キリスト教 牧師さん
−
タシとアスランは、おまえたちの知っているひとりのかたの、二つのちがう名前だというだけのことよ
ある意味本当かも?
でも
ムハンマドさんが読んでた
「シリア語」の旧約聖書の「神」
イエスは
(一神教では、、、、
イーサー
違う名前で呼ばれる
ちょっと違うストーリー
コーランと聖書
−
多神教の土壌においてはわからないことです。ただ一人の神が世界を支配する主人としておられ、幸福も災いもその一人の神から来ることを信じる時に、その神の主権と自由ということが生じ、神は新しく何をなさるかわからない、人間がそれに反対したり、抵抗することは神への反逆だ、という論理がなり立つのです。ヨコシマはそれを巧みに利用しているのです。ここには、「一神教」が「狂信」に陥る構造が描かれています。「唯一の神に従う」という信仰は、まかり間違えば、「唯一の人の独裁」になるのです。大切なことは、その唯一の神がどのような神であられるかです。そこを間違ってしまうと、飛行機をハイジャックして乗客もろとも自爆テロを行うことをも平気でするようになってしまうのです。
えー
自爆テロ
(、、、この人 キリスト教 そして教会の人だから?
イスラム教
一神教
そして
多神教のキリスト教、、、
ジハード
って言葉
十字軍とか「漫画(タイトル 小学生かな?)」
で覚えた言葉だけど(小学生はイスラム教 あまり知らない日本のこども)
、、、
でも!
911
とか
以降の世界
においては
ジハードとか
ちょっと「怖め」の なんというか あさんぷしょん ある人いる?
−
偽のアスランの登場です。そこから、ナルニアの最期の物語が始まります。「『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴が有るのですか.』イエスはお答えになった。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう』」(マタイによる福音書第24章3~5節)。偽キリストの登場こそ、世の終わりの徴なのです。
「アスランは出てきやしない。当節は現れない」、この言葉ほど、ヨコシマの思いを端的に表しているものはありません。つまり、アスラン(神)などこの世にいないということです。「神を知らぬ者は心に言う。『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」(詩編第14編1節)。神への畏れを失った心から、ナルニアの滅亡をもたらす悪が生じるのです。
それからしばらくして、「アスラン現る」という知らせがナルニアに広まり始めました。ナルニアの最後の王となるチリアンと、その親友である一角獣の「たから石」は、その知らせを大いなる喜びをもって聞きました。しかしセントール(腰から上は人間、下は馬というギリシャ神話のケンタウロス。ナルニアでは勇猛、荘厳にして賢い存在として登場)の「星うらべ」は、自分が星の動きから読み取ったことによれば、それは真っ赤な嘘だと言います。
「うそだと!」王ははげしくいいました。「ナルニアの、いやあらゆる世界のいかなる生きものが、このような事がらにうそをつく気がいたそうか?」こういって王は、みずから知らないうちに、刀のつかに手をかけていました。「それはぞんじません、陛下」とセントール。「ただわたくしのぞんじますことは、地上にはうそつきがいるということでございます。星々のあいだに、うそいつわりはありません。」「星々の知らせるところがちがったものであっても、はたしてアスランはお見えにならないでしょうか。」とたから石がいいました。「アスランは、星々のどれいではなくて、その作り手です。むかしからの物語にも、アスランは、主人もちのライオンにあらずというではありませんか。」「よくいった。よくぞ申したな。たから石よ。」と王が声をあげました。「それそれ、そのことばよ。主人もちにあらずとな。かずかずの物語に出てくるぞ。」
ここに、この後何度も繰り返される鍵となる言葉、「主人もちのライオンにあらず」が出てきます。原文ではnot a tame lionです。tameというのは、「飼いならされた、人間の言うことをきく」という意味です。アスランは、人間(ナルニア人たち)の言いなりになる召使のような存在ではなく、自由な主人であられる、ということです。第1巻「ライオンと魔女」の終わりの方で、ビーバー夫妻がピーターたちにそのように語っていました。そのことが、最終巻「さいごの戦い」の主要なテーマになっているのです。
キリスト教
教会の人が
ナルニア国のお話し
そして
キリスト教
についてわかりやすく書いている
偽アスラン
偽イエス
偽イーサー
偽ライシン(小説の中 人造卵子 入れ替え!)
−
「さて、ブレー。あわれな、自慢やの腰ぬけ馬よ、ここへくるがよい。もっと近くによれ、わが子よ。勇気をだしそこなったことは勇気をだしてやりなおせ。わたしにさわってごらん。においをかいでごらん。これがわたしの前足だ。これがしっぽだ。これがほおひげだ。わたしはほんもののけものだよ。」
このくだりも、キリスト教信仰における大切なことを言い表しています。もの言うけものの国ナルニアの救い主アスランは、「ほんもののけもの」なのです。それは私たち人間の世界にあてはめて言えば、私たちの救い主イエス・キリストは「まことの人」であられるということです。ブレーは、アスランがライオンであるというのは「ライオンのように強い」という意味のたとえに過ぎないのであって、アスランが本当のけものであるはずはないと思っていました。それは、神の子イエス・キリストが人間となられたのを、「人間の姿に身をやつして」来られたのであって、「人間のように見えただけ」で、私たちと同じ人間であるはずはない、と考えるのと同じことです。そういうのを「仮現論」というのですが、それはイエス・キリストを神として尊敬しているように見えて、実は、神が人となって下さったという恵みを否定してしまっているのです。アスランは、ブレーと同じ、四つ足で、しっぽがあり、ひげがある、ほんもののけものです。主イエス・キリストは、私たちと同じ、まことの人間となって下さったのです。それが「神の子の受肉」という恵みです。神の独り子が、まことの神でありながら、まことの人となって下さった、そこに、神の私たちに対する、人間の思いを越えた驚くべき愛があるのです。「神様が人間になるなんてあり得ない」とわけ知り顔で言う私たちに対して、主イエス・キリストは、「わたしはほんものの人間だよ」と告げて下さっているのです。
偽キリスト
偽アスラン
−
http://w2322.nsk.ne.jp/~tkchurch/narnia_31.html
10代の頃でなく
改めて今よむと
ナルニア
と
違う国(アラビア?
違う宗教 違う肌の色
そして
戦争
誘拐?
(、、、なんか今の世界も
戦争はある
宗教というもの
そして「国」と戦争
戦争と戦争奴隷)
−
一匹の子羊に会いました。この子羊との会話が、ナルニア国物語全巻の意味を知る上でとても大事なものです。
「子ヒツジさん、教えてくださいな。」とルーシィがたずねました。「ここは、アスランの国へいく道ですか?」「ここは、あなたがたの道ではありません。」と子ヒツジがいいました。「あなたがたがアスランの国へいく入口は、あなたがたのあの世界からひらかれているんです。」「なんだって!」とエドマンド。「アスランの国へはいる道は、ぼくたちの世界からも通じているんですか?」「わたしの国へ来る道は、あらゆる世界から通じている」
子ヒツジさん
アスラン
屠られた
(黙示録)
−
昔
木のおとめドリアードから聞いた歌を披露しました。「空と海おちあうところ、波かぐわしくなるところ、夢うたがうなリーピチープ、もとめるものを見つけるは、ひんがしのいやはての国」。リーピチープにとってこの航海は、単なる冒険の旅ではなく、アスランの国への巡礼の旅、「天路歴程」
巡礼か。。。
波かぐわしくなるところ
「水が甘く」なるという
空と海おちあうところ、波かぐわしくなるところ、夢うたがうなリーピチープ、もとめるものを見つけるは、ひんがしのいやはての国
ココ!
おじいさんのいる場所!
っていう「イメージ」
波かぐわしい あのへんは
水蓮が咲いている
これから先の人生をずっとあたため続けてくれている大切な言葉をくれたおじいさんの魂が、安らかな場所で幸せでありますように、と祈る。
I pray for his soul.
The old man gave me precious word. It warms me up for the rest of my life.
I wish he is happy somewhere peaceful.
REST IN PARADISE というけれど、そもそもおじいさんは生きている間中、ずっといつも、天国(パラダイス)で暮らしていたのだ。
イエスはよみがえったというが、その足跡はすぐに歴史から消えている。四十日後に天に昇ったというのは、そのことを覆い隠すための口実ではないか。結局よみがえりなどなかったのだ。本当によみがえったのなら、イエスの足跡がもっと残っているはずだ」。という議論は私たちをも動揺させるのです。そしてそのように主イエスの復活を否定するところには、神の力、主イエスの力に依り頼むのではなく、別の力に頼ろうとすることが結びついています。彼らは、ナルニアをとこしえの冬に閉じ込めていた白い魔女の力を、つまり悪の力を借りようとするのです。
復活
(イエス LENTとか
ちょっとハッカーアタックされてる!
ハッカーはどうして
「宗教」を攻撃したい?
どこの国のどの宗教を信じている人?
メキシコのLENT
他の国とは
他の街とは「違う」
その国には、、、(黒いマリアさまとか)
−
アスランがふたたびよみがえったというぞ。」とアナグマがするどくいいました。「そうとも、そういっている。」とニカブリクはこたえました。「でも、それからさき、アスランの動きが、ほとんどつたわっていないことに気をつけてくれ。つまりアスランは、いいつたえの中から消えているんだ。ほんとうによみがえったのなら、これはどう説明できるか?つまり、アスランは、よみがえらず、したがって、いいつたえることが何もないから、物語もつたわらない、というのじゃないか
やっぱ
身代わり
ユダ
人の代わりに(罪深い人)
無実のイエス(アスラン)
「キリスト教におけるけっこー大きなストーリー。。。」
−
これから、みんなのところへ帰って、起こしなさい。そして、あんたがふたたびわたしを見たことを、みんなに話しなさい。あんたがみんなを目ざめさせて
起こす
みんな目覚めるの?
(聞いてない人多いのは
flint stone の時代から変わらないのかもなー 道具の使い方 殺人 人は残虐
−
「みんなもっと目覚めた方がいい」
すべての人に力の夜を!
−
なかなか目を覚まそうとしないし、すぐにはアスランの(キリストの)お姿が見えないのです
なるほどなー
(時間は あんまなくても
「カミサマ」いろんな呼び名
いろんな国
いろんな宗教
それでも!
「終末論」
「約束の時」
そういうもの!
「ある」のに
−
全く違う時代になっているのです。そもそもそんなことが本当にあったのかどうかさえも、疑わしく思えるのです。またたとえ昔はそうだったとしても、そのアスランが今もおられ、救い、恵みを与えてくれるとは思えない厳しい現実が目の前にあるのです。そのような目に見える現実の中で、伝えられてきたアスランの存在、その救いを固く信じて生きる、心変わりしない信仰、それ
昔は「カミサマ」いたのか?
イエスもいたのか?
イーサーも?
本当の話
それで十字架破壊はイーサーが戻って「彼がする」
聖書ではない
コーランのお話
−
わたしはけものだ。そして、とりわけアナグマなのだ。わたしたちは、心を変えたりせぬ。いつも同じ心をもちつづける。わたしは、ここからきっとよいこと、この上なくよいことがひらけてくると思う。わたしたちのところにおられるのは、ナルニアのまことの王だ。まことの王が、まことのナルニアにもどられたぞ。
昔話では
ものいわないバベルは
大阪のハッピィタウンに住んでて
ものいうけもの
犬のバベル
はナルニアあたりに、、、?^_^
バベちゃんは犬!
ものいうけもの ナルニアみたいに
犬がお話ししてくれるかというと
ワンワン語を知ってるヒトはいると思うぞ^_^
−
これは、人間の国ではない。だが、人間が王たるべき国だ。わたしたちアナグマは、そのことを長いあいだおぼえてきている。どうだ、一の王ピーターは、人間ではなかったかな?」「あんな昔話を信じてるのか?」とトランプキン。
昔話
アスランは昔話
イエスは昔話
イーサーは昔話
ムハンマドさんは昔話
天使は昔話?
どういうことだろう?
−
罪のない者が罪人の身代りになって死んだなら
このあたりは
元々の聖書になかったストーリー?
どうだろう?
ムハンマドさんが読んでたのは
シリア語の聖書!
(旧約
ヨハネは読んでそう(同じ部分もある 黙示録 でも違う) シリア語で読んでたのかな? ムハンマドさん!
−
「魔法」の意味は、前にも書きましたように、「この世界の基本的秩序、掟」というようなことです。世の始めからの深い魔法(掟)においては、裏切り者、罪人は殺されなければならないのです。それはパウロの言うところの、律法において働く「罪と死の法則」(ローマの信徒への手紙8・2)です。それに対して、世の始めより前からのより深い魔法とは、天地を造られた父なる神のみ心です。そのみ心においては、罪のない者が罪人の身代りになって死んだなら、その死はふりだしに戻る、つまり罪人の罪を背負って死ぬ罪のない贖い主によみがえりが与えられるのです。この父なる神様のみ心が、「罪と死の法則」を越えて働いているのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(ローマの信徒への手紙 第八章一~二節)。
ローマか、、、
贖罪
ミラノ勅令303
(それまでは 結構イエスは受難してたみたいだしな)
−
スーザンの言葉は「Is it more magic?」であり、アスランの答えは「Yes!It is more magic.」なのです。このmoreには「まだ魔法が続いている」という意味も確かに込められています。その意味では「もとの魔法の続き」と訳すことができます。しかしそこにはさらに、「より以上の魔法」という意味があると思います。そういう意味ではこれは、「もとの魔法の続き」ではなくて、「もとの魔法を越える魔法」
なるほどなー
原文で読んだことないんだなー
瀬田さん訳好きなんだけど!
朝びらき丸!
「名前」!^_^
−
罪のないアスランが罪人の身代りになって死に、そしてよみがえることによって、罪と死の力が打ち破られ、救いがもたらされる、ということです。キリスト教信仰の根本であるキリストによる贖罪がここに描かれています。
キリスト教
贖罪
アスラン
、、、
十字架破壊か。。。
(アスランの国
と
別の国のタスという神様?
夜の旅で見た神様
ぜんぜん違う!
、、、(彼は真面目な学者で本も書いている ルイス だけど コーラン読んだことなかったのかな、、、)
モデルとなる国は トルコで
イスラム教 らしいけど、、、
−
なかなか目を覚まそうとしないし、すぐにはアスランの(キリストの)お姿が見えないのです
なるほどなー
(時間は あんまなくても
「カミサマ」いろんな呼び名
いろんな国
いろんな宗教
それでも!
「終末論」
「約束の時」
そういうもの!
「ある」のに
-
世の終わりと自らの死を見つめて生きることが、決して恐怖や絶望ではなく、喜びと希望に生きることなのだということを描いている
終末論
(私はキリスト教ではないけど
聖書は読んだ「その箇所」
ヨハネとか
(映画もある?
でも!
ジョジョでいう
ニュー神父
「覚悟」
とか、、、なぁ
「死」を見つめて生きる
なのか、、、
(小学校の時 何考えてたかな?
「死」のことは考えてなくて
たぶん
10代の頃に考えたのは
「生きる意味」(死を考えるというより)
−
もう一つもとの、もっと古い魔法のおきて
「もとの」と訳されているのは「deep(深い)」という言葉ですし、「もう一つもとの、もっと古い」と訳されているのは「deeper(より深い)」という言葉です。魔女が知らなかった、世の始まり以前からの、より深い魔法によって、アスランはよみがえったのです
なるほどー
−
Yes! And have him rescued,’ said the Witch scornfully.
『そうとも!そして、みすみすあいつらにこの小わっぱを助けださせてなるものか』
なるほど
と
そうとも!
誤訳とまで
思わないけど!
と魔女が、さげすむようにいいました。」と訳していました。ところが、次に小人は「では、ただちにしなければならぬことにとりかかる方がよいと存じます」と言い、彼らが準備を始めたのは、エドマンドを木の幹にくくりつけ、ナイフで彼を殺そうとすることでした。「生かしておいた方がよい」と言い、「そうとも」と同意したはずの彼らが、どうしてエドマンドをここで殺そうとするのか、疑問でした。しかしこれは誤訳だったのです。現在売り出されている改訂版ではこうなっています。「『なるほど!そして、みすみすあいつらにこの小わっぱを助けださせようというのだな』と魔女が、さげすむようにいいました。」つまり、このYes!は、「その通り」という意味ではなくて、皮肉の意味だったのです
私読んだの
改訂版ではなく
最初のやつかも!
(第一次世界大戦
第二次世界大戦
はともかく!
「疎開」!てこと!^_^
−
魔女の、即ち罪の力が、救い主キリストの到来を祝う喜びを人々から奪っている、ということです
喜び奪う「魔女」
−
その国の名が「ナルニア」なのです。この「ナルニア国物語」が、私(教会の牧師さん キリスト教信者) が小学校の高学年の頃に翻訳されて出版されました。私はそれを夢中になって、何度も何度も、暗記してしまうくらいに読みました。そして、ナルニアにあこがれ、自分もナルニアに行ってみたい、と思ったのです。
(、、、高校の時読んだなー
暗記はしてないかも!
だけど
ナルニアにはもちろん!
行ってみたい泣)
小学生でも読むことできるけど
たまたま出会ったのは高校の図書館
指輪物語とかシルマリルより
「前」にこっちを読んだ!
(地元の図書館と中学校の図書室小学校の図書室にはなかったからかな!)
−
オックスフォード大学で三十年間英文学を教え、ケンブリッジ大学で中世・ルネサンス英文学の主任教授を勤めました。亡くなったのは一九六三年です。このように学者としての生涯を送った人ですが、彼は同時に英国国教会の信徒として、信仰についてのいろいろな本を書いており、むしろそれらによって有名になったと言えます。それらの書物は、「C・S・ルイス宗教著作集」(全八巻、新教出版社)として翻訳出版されています。その第一巻は「悪魔の手紙」で、年上のベテラン悪魔が、新米の悪魔に、人間を誘惑して罪に陥れるための様々な手口を教える、という設定で書かれているものです。そこに逆説的に、人間が罪を犯していくとはどういうことであるのか、それに対して信仰を持って生きるとはどのようなことであるのかが、非常に深く、また想像力豊かに語られている、大変面白いものです。
ベテラン悪魔か、、、
(それは読んだことない
−